美味しいと感じること

美味しいものを食べると、美味しいと感じる。

美味しいと感じるのは、人それぞれ。

だからこそ、人によって大好物は異なる。

大好物な食べ物でも、〇〇店が美味しいと人それぞれ店や親、妻など作る人によっても美味しさは変わる。

私にも少なからず、大好物はある。

そのひとつが、華菜樓(かさいろう)の麻婆豆腐である。

四川風土鍋麻婆豆腐

正式には「四川風土鍋麻婆豆腐」

ルミネ横浜で昼食を取る際に、店を選んだきっかけは空いていたから程度だったと思うが、これが正解だった。

美味しいものを食べると、「旨い」「美味しい」と声に出てしまうのである。

体験し、感じて、発する。

美味しいと感じること、感じて声に出したこと、このことが記憶に刻まれる。

自宅でご飯を食べる時、ご飯を食べることに集中していない。

大抵が、テレビを見ながら、スマホを見ながら、である。

このながらご飯をしている人は、結構いるのではないか。

私の幼少期、自宅でのご飯は家族一緒に話しながらご飯を食べていた。

話しながら、ではあるが、今よりもご飯に集中できていたから、母親の料理のいくつかが記憶に残っている。家族一緒、会話も含めての記憶というものもあるが。

つまり、なにが言いたいかというと、ご飯を食べることに集中できていないから、ご飯の美味しさを感じることにも集中できていないのではないかと思った。

一人で外食するにしても、スマホを見ながらということはあるかもしれないが、私は食べる時は食べることのみを行っている。

料理が来る前、食べた後はスマホを触ってはいるが。

この、食べることに集中し、美味しいと感じる。

これが、今になって大事な感覚だと思えるようになった。

引っ越ししてからというもの、そういった美味しい店、料理というものを探しに、いくつかの店舗に赴いてみたが、未だ見いだせていない。

見出せないからこそ、過去食べた美味しい料理というものが、鮮明によみがえってくる。

毎日食べると飽きが来るのだが、たまにふと思い出す。

あー、麻婆豆腐食べたいなぁ、と。

美味しい記憶があると、食べたいなという欲求が、自分の中から湧き出てくる。

これは食べたいという欲求からくるものであるが、それは体験によってである。

何かを体験し、その体験が良かったものは欲求として、悪かったものにたいしては、もうやらないという選択として、自分自身にとって大事なことなんだなと。

なので、今回は食べること、美味しいと感じることを書いたが、何でも体験してみる、体験していく中で自分にとってよい体験というものを経験していくことが、充実した人生につながるのではないかと思ったのであります。

※華菜樓 ルミネ横浜店は残念ながら閉店してしまい、残るはルミネ新宿店のみ。いつか行って食べることを楽しみにしている。

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