他人に依存

何かを残したいと思う欲求や願望は、根源はなんだろうか。

若いときほど、その思いは強くないが、それでも死ぬ前にあれやったなぁと思えるようにとは思っている。

自己満足という言葉があるが、これは結局他人から認められたいことのように思う。

自分が満足する。自問自答してよかったと思える。

プラスして他人からもが補足である、そんな気がするのである。

自問自答する場合、客観的にもうひとりの自分が判断する場合があるが、もうひとりとはいえやはり自分なのである。

「本当によいのか?」「やはり、よい」みたいなやり取りをしたところで、不安だ。

そこに他者の意見、特に賛同された場合、安心し良かったと思えるのである。

結局人間は(わたしのこと)寂しがり屋だ。

虚勢を張っても、ひとりが良いと思っても、奥底には他者から認められたい思いが隠れていると思う。

だからと言って、他者よりに行動を調整していくことは、自分が許さないのである。

そんなプライド捨ててしまえと思うが、プライドなのかどうかわからない。

ただ、最近仕事に対して心の余裕があるせいか、低姿勢で相手に接すると相手も悪い気がしないせいなのかわからないが、スムーズに事が進む。

その時自分の心は、なかば諦めのような感情が湧くときがある。

自分という人間性は強がっても、それ相応の人間ではないので見透かされていると思っている。

なので、今はこのスタンスで進めていったほうが良いと思うが、ひっかかる部分もあるのは確か。

低姿勢でやり取りしていると、勘違いする人間もいるわけで、そういう上からな態度で来るわけである。

それを、この人はこういう人かなどと、心で思いつつも接していくかどうかと考えるが、仕事でのやり取りしかないので、仕事がうまくいく方法を最善と考え、諦める他ない。

話がちらかってきたが、こういう諦めが嫌だから、会社勤めをやめたいんだろうなと。

自分の好きなことでお金を稼ぐ、そういうものに憧れを持っているのは顧客や社内の人間関係が嫌だから。

独立したところで、人間関係がなくなるわけではないので、人間である以上嫌なというか合わない人は必ず出てくるだろうと思う。

なので、考え方としてそういう人間関係は絶対あると決め、嫌な人との接し方を自分のルールとして決めておき、その瞬間が来たら、機械的にルールに則って行動するとことにしようと思う。

冒頭の書いた認められたい欲求について、嫌な人からも認められたらどう思うのか。

素直にうれしいと思うのか。それとも嫌だなと思うのか。

私には本当に嫌だなと思う人はおらず、苦手な人はたくさんいるが、苦手な人から褒められたりしたら、素直にうれしいと感じる。

本当に嫌いな人から、褒められたらどう思うんだろうか。

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